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2005年3月30日 (水)

風といのちの詩

 今日、徳島県生活協同組合連合会の主催で、「風といのちの詩(うた)」上映会がありました。当初の狙いは、ドキュメンタリービデオ「遺伝子組換えNON!~フランスからのメッセージ」だったのですが、それはそれでもちろん良かったのですが、引き続いての映画にすっかり心を奪われてしまいました。
 タイトルのとおり、自然を「風」と「いのち」という視点で描いた作品です。猿、亀、馬、人たちの誕生と死の映像からいのちの尊厳があふれ出てきていました。しかも一時間半という長丁場にナレーションが全くない、いえば単調な映画であるにもかかわらずです。
 機会があれば皆さんも是非ご覧ください。

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2005年3月25日 (金)

事必帰正

 23日の議会閉会日に「中学校歴史教科書・公民教科書の採択改善を求める請願」が採択されてしまいました。23日のノートにも書きましたが、私はこの請願を採択しないで欲しい旨の申入書を県議会議長あてに送付していました。かつて日本は侵略戦争により、アジア・太平洋地域の人々に大きな被害をもたらし、日本の青少年もこの戦争に動員され命を失いましたが、そのような悲惨な結果をもたらす原動力が当時の教育でした。だからこそ、その反省の上に教育基本法に「教育は不当な支配に服することなく」と明記をしたはずなのに、また、その愚を繰り返そうとしています。
 韓国のノムヒョン大統領が青瓦台のホームページに「韓日関係に関連して国民の皆さまへ」という談話を発表しています。大統領は「事必帰正:すべての過ちは必ず正しい道理に帰する」を信じていると述べています。今まで自衛隊海外派兵や靖国神社参拝問題にしても日本に対して言いたいことを控えてきたが、独島(竹島)、さらには歪曲された教科書が息を吹き返そうとしている事態に至っては韓国政府も断固として対応せざるを得ないと書いています。加えて、一部国粋主義者の侵略的意図は絶対に許せないが、日本国民全部を疑ったり敵対してはならないとも訴えていることを見逃してはならないと思います。

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2005年3月23日 (水)

一週間のノート

 「今日のノート」でなく一週間のノートになってしまいました。読みづらくて申し訳ありません。
 3月20日に「平和のためのWorld Action徳島」が開催され、事前の広報のため16~19日の間、毎朝7:30からプラスター立ち、昼間はその手続きのために保健所へ行ったり、屋台用のうどんやジュースの買い出しに走ったり、こんなに忙しくなると思っていなかったので事前申し込みをしてい徳島市のごみ処理施設見学会に参加という日々。夜は16日に西部地区労青年婦人部の春闘学習会、18日が同じく西部地区労の春闘決起集会、17日、19日も会議で深夜帰宅。20日は、イラク反戦行動の当日、8:00に公園の鍵をあけ、夕方5時に施錠するまで、ほぼ一日中立ち通し。夜は、国際ボランティアセンターの佐藤真紀さんの講演会。21日、私用で伊予市日帰り、22日また早朝街宣で、合間に公園の鍵の返却に走り、夜は三加茂町職の春闘学習会の講師、終了後に交流会をもってくれたので泊。今朝5時起きで帰り、県議会に出すための申入書作成、議会事務局に何とか9時前にFAX送信しました。
 今日、徳島県議会は閉会日で、「中学校用歴史教科書・公民教科書の採択改善を求める」請願が提出されており、紹介議員として自民系21人が名をつらねており、採択予定と言われていました。しかし、この請願は扶桑社の教科書を採択させるための布石といえるもので見過ごすことができなかったのです。
 ところが、議長人事をめぐって最大会派である自民県民会議が今日解散という混乱状態となり、開会は午後にずれ込んだようです。会派内抗争でなく、政策論議に全力をあげるのが議員の任務だと思うのですが。

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2005年3月16日 (水)

時代を撃て・多喜二

 「蟹工船」で有名なプロレタリア作家小林多喜二の生涯を描いたドキュメンタリー映画「時代を撃て(ときをうて)・多喜二」が、昨夜、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟徳島県支部の主催で上映されました。
 生誕100年、没後70年を記念して作られたものですが、特別高等警察に捕らえられ、その日のうちに拷問で虐殺された多喜二はわずか29歳という若さでした。映画は多喜二を知る人の証言、肉筆原稿、写真などを網羅し、「一九二八年三月一五日」などの作品朗読もあり、そのころの時代をくっきりと描いていました。そして、過去のことでなく、今を生きている私たちの問題であることを訴えるものでした。
 自民党新憲法起草委員会の意見集約では九条で自衛隊を軍として位置づけ国民に国を守る義務を課し、さらに、権利・義務の項に「結社の自由は国家や社会秩序を著しく害する目的で作られる」ものを制限するとなっています。本当に今の問題だと思います。

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2005年3月15日 (火)

第一回干潟塾

 とくしま自然観察の会が主催する干潟塾に昨夜行ってきました。講師の清野聡子さん(東京大学大学院助手)のお話は何度も聞いたことがありますが、今回はワークショップ形式で行われ、新しい発見がいっぱいありました。
 徳島県自然保護協会の森本康滋会長(城東高校時代の生物の先生です)や吉野川みんなの会の姫野雅義さんをはじめとする県内の川、海、植物などその道の専門家の話はもちろん、漁師さんの説明、年配の方の戦後の徳島市内の様子などたくさんのことを伺いました。しかも机の上には江戸時代の絵地図、大きな海図、空撮写真などが広げられ、飯原一夫先生の昔の徳島を描いた絵も紹介され、砂州や干潟ができればそこに人が集まり町が作られていく様子や、地形や植物の変化などもよくわかりました。
 干潟塾はこれからも月1回のペースで開催されるそうです。ちなみに前にも書きましたが、自然観察の会の井口利枝子世話人とは城東高校時代の同級生です。
 

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2005年3月14日 (月)

老いのリハーサル

 12日(土)、徳島県主催の介護セミナーに参加しました。講演テーマの「心のあやとり~介護する側、される側の心のあり方」に惹かれて申し込みました。講師は神奈川県在住のエッセイスト羽成幸子さん。何と彼女は19歳の時から祖父母、父母、姑の5人の介護をし看取ったというのです。
 とにかく「すごい」というか「すさまじい」というか、被介護者と格闘とも言えるほどぶつかり、真剣に向き合ってきた体験談には重みがありました。最後の「介護は自分の老いのリハーサル」という言葉は彼女だからこその説得力を持っていました。
 母の入院生活も1年3ヶ月、今は、毎日かゆみ止めローションを塗って、洗濯物を持ち帰り届けるだけしかしていない私でも、やはり疲れる時があります。お話を聞いてずいぶん楽になった思いがします。
 2部では徳島文理大学の津山祐子教授から音楽療法についての講演がありましたが、所用のため中座してしまいました。

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2005年3月 9日 (水)

栗原貞子さん逝く

 原爆詩人とも反戦・反核詩人とも呼ばれた栗原貞子さんが今月6日、92歳で亡くなられました。栗原さんと言えば、やはり「生ましめんかな」があげられると思います。 
 こわれたビルディングの地下室の夜だった。/原子爆弾の負傷者たちは/ローソク一本ない暗い地下室を/うずめて、いっぱいだった。/生ぐさい血の臭い、死臭。/汗くさい人いきれ、うめき声/その中から不思議な声がきこえて来た。/「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。/この地獄の底のような地下室で/今、若い女が産気づいているのだ。/マッチ一本ないくらがりで/どうしたらいいのだろう/人々は自分の痛みを忘れて気づかった。/と、「私が産婆です。私が生ませましょう」/と言ったのは/さっきまでうめいていた重傷者だ。/かくてくらがりの地獄の底で/新しい生命は生まれた。/かくてあかつきを待たず産婆は/血まみれのまま死んだ。/生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも/
 私が直接お話を伺ったのは、80歳は超えておられたので10年ほど前のことだと思います。爆心から1.5キロのヒロシマ貯金局の地下室でのことを近所の農婦から聞き、一気に書き上げたそうです。暗い地下室で生まれた赤ん坊は原爆の廃墟の中から平和を求めてヒロシマが生まれたのを意味し、暁を待たずに死んだ血まみれの産婆とは8月15日を前に死んでいった20万人の被爆者のことだと語られました。だからこそ、20万の死を無駄にしないためにもヒロシマを育て、核のない、戦争のない世界を作らなければいけないとの訴えが今も耳に残ります。
 心からご冥福をお祈りいたします。

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2005年3月 7日 (月)

館長雇止め・バックラッシュ裁判

 明日3月8日は国際女性デーです。徳島では毎年実行委員会方式で3.8行動に取り組んでいますが、今年は昨日、三井マリ子さんをお迎えして開催しました。
 三井さんは、東京都で英語の高校教師をした後、東京都議会議員として二期大活躍。後、ヨーロッパとくに北欧の女性政策研究・発表を続け、2000年から大阪府豊中市の「男女共同推進参画センターすてっぷ」の館長(全国公募)として新しい企画をどんどん打ち出し、全国から注目を集めていました。ところが、それがゆえにというか男女共同参画へのバックラッシュ(逆流・反動)攻撃の標的とされ、市議会での嫌がらせ質問、悪質なビラまき、すてっぷ窓口への嫌がらせなどが繰り返されました。それに屈した豊中市は非常勤館長である三井さんを雇止めとしました。三井さんはこの実質的な解雇を許せないと裁判に訴えました(http://fightback.exblog.jp/i3)。
 私も支援するファイトバックの会員となっています。掲示板に三井さんからの書き込みもいただいています。あわせてご覧ください。
 

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2005年3月 3日 (木)

3月3日は男の子の日

 朝鮮と日本には旧正月、旧盆、七夕など共通の季節の祝い事や風習が多いにもかかわらず、3月3日と5月5日は正反対の節句になっているそうです。
 高句麗の時代に「サモルサムジル」といって陰暦の3月3日に狩をして、獲物を皆で食し春の到来を祝う行事があったようです。男子に武術の練磨を奨励し、郷土の守り手を選ぶ日であったのが、後に形骸化し、野外で遊興を楽しむ風習だけが残ったとか。
 国が違えば「男の子の節句」「女の子の節句」すら逆にもなるということを見たとき、「男らしい」「女らしい」も時代や国により違って当然であり、「らしさ」によって生き方を縛ることの不合理さも見えてきます。
 
 ちなみに、3月1日から1047Kmを走り始めた中野勇人さん(2月23日のノートを見てください)、昨日元気に池田町に到着。あと30日、とにかく無事を祈ります。

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2005年3月 1日 (火)

消える「丹生谷」

 今日、「平成の大合併」により、美馬市、つるぎ町、那賀町が誕生しました。私の生まれ育った相生町という名称は消えてしまいました。
 「昭和の大合併」で延野村、日野谷村、相生村が相生町になりました。それ以前に結婚し町外に在住する伯母達は生家のことを「延野」と言います。私や子どもたちは「相生のじいちゃん、ばあちゃん」と言います。今更「那賀の○○」には変わらないでしょう。
 那賀町になった木頭村、木沢村、上那賀町、相生町、そして鷲敷町は昔から丹生谷(にゅうだに)と呼ばれてきました。以前にこのノートにも書きましたが、江戸時代末期には丹生谷一揆もあり、歴史的な名前です。さらに私は選挙の時に丹生谷出身というご縁を頼って多くの方にお世話になりました。
 その丹生谷という地域を示す呼称は那賀町の誕生で不要になり、だんだんと消えていくのではないかと思います。

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