バルトの楽園(がくえん)
徳島県鳴門市でロケが行われ、多くの県民がエキストラとして協力したと前宣伝の大きかった「バルトの楽園」、上映1ヶ月以上経ってようやく、それも割引券の期限切れにせかされて一昨日やっと見てきました。第一次世界大戦でのドイツ兵捕虜を収容した板東俘虜収容所が舞台で、日本で初めてベートーベンの「交響曲第九番 歓喜の歌」が演奏されたエピソードがクライマックスに登場します。「バルト」とはドイツ語で「髭」のことで、「敗者」の人権を守るべきだと考える松江所長の髭と会津藩士として辛酸をなめた父の髭をだぶらせて描いています。
この映画にも「会津」だからと明治政府の中で差別的に扱われる場面がありますが、私は会津藩はなぜ朝敵となりながらも最後まで徳川幕府のために闘ったのかということが不思議でした。その謎が解けたのは、5年ほど前に二代将軍秀忠の庶子として生まれた保科正之を描いた「名君の碑」(中村彰彦著)を読んだ時です。家光の異母弟である正之の誕生から会津藩主として亡くなるまでの一生を描いた小説ですが、正之が定めた会津家家訓に徳川家への忠誠が一番に書かれており彼亡き後もその精神が受け継がれていたことが書かれていました。さらに、彼の多くの功績がなぜ歴史に残らなかったかと言えば、明治時代に作られた薩長中心の国史の中で意図的に消されてしまったともありました。歴史は勝者によって書かれるとの言葉どおりです。
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